[ [ [ 風邪をひきました 1 ] ] ]
「……なんで寝てないんだよ」
エプロンをつけたゾロリは、包丁を持つ手を止めると、出入り口のところに所在無さげに立つ青年を睨みつけた。
敵意のある表情に魔法使いは少し眉根を寄せて、困った顔になり、そして、口を開く。
「あの、ええと。
その、別に、御粥なんかいりませんよ」
「腹減ってないのは分かるが、薬飲む前にすこし腹に入れないと悪ぃんだよ。まだ昼は食べてないだろ?
―――っつーか。それ以前に。
病人は寝てろっつっただろうがっっ!」
ゾロリの牙剥き出しのきつい一言に、ロジャーはうっと息を詰らせる。
それは、いろんな意味で痛い痛い痛い一言だったのだ。
日曜日に祝典の警護が入った代休として、今日は、エージェントの仕事が昼頃に終了することになっていた。それを聞いたゾロリは、せかっくだからと最近巷を騒がしている人気映画を見に行こうとロジャーを誘った。昔のアニメが実写化されるというとかで、ゾロリがいたくそのアニメを懐かしく語っていたので、好奇心が膨らんでいた魔法使いは二つ返事でその意見に賛成したのである。
しかし。
約束の時間になっても、魔法使いは帰ってこなかった。ゾロリがイライラしながら家で待っていると、半時間遅れでエージェントはやってきた。珍しいこともあるものだと思いつつ―――いつも遅刻するのは決まってゾロリだからだ―――詰ると、年下の青年は頬を膨らませて「仕事だから仕方ないでしょう」と口を尖らせた。
その態度が気に食わなくてゾロリがさらに言い募ろうとした瞬間、いきなり、ロジャーはふらりと危うげな足取りをして倒れかけたのである。
流石のゾロリも色を失った。
彼は、魔法の国のエージェントで、優秀な魔法使いで、無駄に頑丈だ。
見れば、頬が林檎のように赤い。なのに、汗は少しもかいていない。
反射的にその額に手を当ててみれば―――熱い。
「熱がある!」
キツネは尻尾を立てて叫ぶと同時に、ロジャーを肩に抱え上げて寝室に強制連行。その小さな口に体温計を突っ込むと、予想通り高い数値が現れた。うろたえるロジャーを着替えさせて布団の中に押し込むと、粥を作ってくるといって部屋を出て行った……というわけである。
濃紺のパジャマを着た魔法使いは顎に手を置いて、きょろきょろと視線を這わせる。
「あの……。
御粥なら魔法ですぐに出せますし、その……」
「俺様に喧嘩を売るなら病気が治ってからにしろ」
とさっくりと言い捨てて、ゾロリは漬物切りを再開する。とんとんとんとん……とやや量が多いような気がすると魔法使いが嫌な予感をしながら見ると、案の定、丸ごと一本沢庵を切ろうとしている。
横の土鍋がかたかたと小さな音を立てて、ゾロリは火を弱めた。鍋から立ち上るいい香りが廊下の外まで広がる。ゾロリの料理は凝ったものではないものの、決して下手ではなく、どこか懐かしい基本的な味を抑えている。おふくろの味みたいだ、とロジャーが言うと、いつも不機嫌な恋人にしては珍しく嬉しそうにして「ありがとう」といった。
その時の彼の微笑みは、ロジャーの胸の中に大事にしまっている。
その笑みを思い出すと、さらに気持ちが萎えてきた。実は、今、ゾロリに告げなければならないことがあった。しかし、それを言えば、確実に彼を怒らせる。……怒らせるで済めばよいが、もしかしたらそのまま大喧嘩になって別れるなんて嫌な話につながりそうな気がする。
そう思うと、ロジャーは言葉が出なくなった。体が全身全霊を込めて拒絶する。理性と本能の鬩ぎあいに暫くの間固まっていたが、結局のところ、落ち着くところに落ち着いた。
ゾロリは、そう、頑固なのだ。
……仕方ない。
パジャマ姿の魔法使いはこっそりと溜息を着く。
お粥を作ることも、今日の予定を変更することも変えられないのだから―――と心に言い聞かせながら、朱塗りの椀がしまってある食器棚に手を伸ばそうと踏み出した。
病人の行動に気にしない振りをしながらその実一部始終を視界の隅で見ていたゾロリの中で、ぷつんと何かが切れた。
*****
「だぁあ、もうっ、お前本っっっ当にいい加減にしろよっ!」
だんっ。
と、言葉に覆い被さる様に鈍い音がした。
それは二つの音が組み合わさった結果。
一つは、ゾロリが激しく足踏みをした。そしてもう一つ、彼の手にある包丁がまな板を貫通していたのである。
ロジャーはあまりの声量とあまりの動作に、ブックラコイータを当てられたように凍てついてしまう。
魔法も使わないのに包丁でまな板をっっ……と驚く彼の前で、さらに驚く光景が展開される。
なんと、つぷっと軽やかにゾロリは包丁を抜いたのだ。
まな板に刺さった包丁がそう簡単に抜けるはずはないのだが、それはともかく、ゾロリは、両手をシンクについて、わなわなと腕を振るわせる。
「粥を作るっつったよなぁ〜。
でもって、運ぶから寝てろ、って何度も何度も何度も言ったよなぁぁ」
俯く恋人の表情が魔法使いには読めない。
が、気持ちを察することに関してはとりわけ鈍い男は、尋ねられたものだと思って答えた。
答えてしまった。
「ええ。おっしゃいましたよ」
ぶちん。
―――なら、どうしてお前は人の話しを聞かないのかなぁロジャー君?
真っ白になったゾロリの心の中で、その一言がほわわんと浮かびあがる。
病人だからこそ、優しくしなければと思っていた。だから怒鳴るまい怒るまいと思っていた。……のに。その儚い理性をことごとく踏みにじっていく男である。こいつが優秀ってそれどう見ても嘘だろう、とゾロリの心のどこまだ落ち着きのある部位が静かに判断する。
ゾロリが立ったまま暫く動かないので。
「あの。どうかしたんですか?」
―――と、不用意にもロジャーは声をかけてしまった。
それが最後のきっかけとなった。
「寝てろっつってるんだよっっ。
勝手なことばかりすんじゃねぇぇぇぇっ!」
雄叫びを上げながらゾロリはくるりと振り返る。
その手には一本の万能包丁。
さっきまな板に刺さったあれだ。切れ味は通販で証明済みの―――下手をすればまな板まで切っちゃいます―――アレだ。上手くやれば一本で本マグロを割けるというアレなのだ。
切っ先は、完全に魔法使いの首筋に向けられている。
これには流石のエージェントも焦った。
「な、何してるんですかっ!」
「我侭っ、生意気っ、頑固者っっ!
人の話を少しは聞きやがれっ!
ねーてーろーっ!
薬もお粥も持っていくから引っ込んでろっ」
ゾロリは言葉に合わせながら、目を瞑って万能包丁を振り回す。自分の怒りで理性のセーブがぶっ飛んでしまったのだ。
狭い空間で狂乱する男(包丁つき)。
しかしロジャーは、魔法の国で名実共に一番の魔法使い。
情報局本部の会報で結婚したい男・抱かれたい男・カッコイイ男の三部門で殿堂入りを果たした、生粋のエリート。そしてエージェントとして、幾度も暴漢を取り押さえたり、強盗を退治したり、街を破壊しようとしたタヌキを捕まえたりしている。
そんな、彼が選んだ最善手は―――
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――っ」
諸手を上げて背を返して逃げ出すことであった。
……魔法の国の屈指のエージェントといえども、万能ではないのである。格言。
ロジャーは一跳足で台所から飛び出し、どしんと勢いよく廊下の壁に激突。鼻をしこたま強く打ちつけた痛みを堪えながら振り向けば、目の前には凶器を構えたキツネ。
しかもその目、ちょっとヤバイ。修羅場を幾度も潜ってきた天才怪盗の本気のオーラが僅かに見える―――ような気がする。
戦略的撤退を選んだロジャーは滝のような冷や汗を流しながら、震える喉に力を込めてなんとか声を捻り出した。
「あのっ、ふ、振り回すと危ないと思うのですが―――」
彼の正論が言い終わる前に、ゾロリの声が被さる。
「……寝るか死ぬか、好きな方を選ばせてやる」
低い、有無を言わせぬ、威圧感の籠もった言葉。
本気だ。
それを、獅子も問答無用で理解する。
選ぶまでもない二択なのだが、あまりに驚いた所為で体が強張って、ロジャーは声が出なかった。それどころか、体が少しも動かなかった。
ピィィィィィィ―――
狙ったかのように空間を切り裂くヤカンの音。
それは、まるで解放の呪文。
ロジャーは静々と両手を挙げた。降参の合図として。
「……寝てます」
「そうしてろ」
ゾロリは険悪な視線で、とぼとぼと恋人が部屋にきちんと戻るまでその背中を見つめていたのである。
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