[ [ [ 明日があるさ 1 ] ] ]
キングサイズのベットの上に、一人の男が俯き加減でちょこんと正座をしている。
その前には、布団を被って身を丸くするキツネが一匹。
カーテンの開かれた窓からは、チュンチュンと賑やかな小鳥の鳴き声。爽やかな朝の雰囲気と一変して、部屋の空気は途轍もなく重かった。
「…………あのぉー」
と、正座していたロジャーが小さく呟く。
ゾロリは視線だけを動かして恋人の顔を睨みつけた。白眼。
その一動作だけで、魔法使いは口を閉じて元の姿勢に戻る。まだキツネの精神状態は凄まじい、という重要な一点が分かっただけで十分だ。
再び、重い空気のまま十分が経過した。
今のゾロリの状態は、端的に言ってしまえば最悪だ。
声を出すことすら途方もない作業に思える程に全身が気だるく、気分も悪く、疲れていた。しかも体中あちらこちらが痛い。特に、喉と後ろが半端なく痛い。顔も生気がなく、目の下にはどす黒い隈。昨夜怒り出した年下の恋人に無理矢理されて、思い出したくもない嫌な目に散々あって頭が痛い上、さらに、重度の貧血に冒されていた。
動くのも、話すのも、目を開いていることすら辛い。怒るなんかもっての他だ。
……だが、この場でこいつを見逃すことだけは絶対出来ん。
ゾロリは幾度目かの決意を経て、とうとう、ふらふらと半身を起こした。ロジャーと対峙する。魔法使いは上目遣いでゾロリの顔に探りを入れつつ、彼の言葉を謹んで待っていた。
眉間に寄った皺。不機嫌そうな半眼。そして燃える様に赤い―――まあ、充血しているだけだが―――目。目元に光る涙とその跡。彼の牙がぎちぎちと小さな音を立てている。
そりゃまあ、怒りますよねぇ……。
ロジャーは当たり前の結論を得て、内心こっそり溜息をついた。
彼がいったん臍を曲げると、なかなか許してくれない。許してくれないどころか、許してもらうために全くもって屈辱的な儀式を強いられる。今までのその『儀式』を思い出して、ロジャーはさらに気分が暗鬱になる。しかし、今回の成り行きはどうやっても『儀式』によらなければ許してくれないだろう。まあ、やる事はやってしまったので悪いとは思っているが。しかし流石にあれはないだろう。
そもそも『儀式』の始まりはロジャーの所為だ、とゾロリは言う。
「人に物を頼むならそれなりの態度があるだろう」
……うむ、まあ確かにそれは言った。
それは言ったが、それはそれだ。互いにそれなりの年なのだから、そんな、完全に分かり合えるなんて幻想は捨てて、多少は融通を利かしてくれてもいいと思う。頑固だと彼は詰るが、どっちがだ、とこのときばかりはいつもロジャーは思う。
そんな思いが、僅かに顔に出た。
魔法使いは己でも気づかぬうちに、ついと唇を尖らせていたのだ。その恋人の些細な変化で全て悟ったゾロリは、びきっと額に青筋が浮かぶ。
「……ロジャぁぁぁ〜?」
ひくひくと震える唇の端から、怒気を孕んだ声で名前を呼ばれる。
やばい! と声には出さなかったものの、ロジャーは蒼褪めながらさっきまでの神妙な顔つきに戻した。もう、躊躇している余裕はない。事態は一刻を争う。『儀式』を始めるしかない。これ以上臍を曲げられて無駄に大変になってはたまらない。
ごくり、と男の喉の塊が一往復。
震える細く綺麗な指が寝台の上に置かれる。
魔法の国でも一位二位を争う優秀なエリート魔法使いは、肘を曲げ、顎を引き、そして―――
―――土下座。
ゾロリとロジャーの間に不文律として存在する『儀式』とはつまり、土下座して一番怒らせたポイントを口に出して謝り倒すという、とにかく情けない謝罪方法なのである。布団を見つめながら、ロジャーは己のあられもない姿を想像して歯噛みした。冷汗三斗の思いだ。
ゾロリは腕を組み、ふうんとまるでどうでも良いような声を上げる。内心、ようやく反省したかぁぁっ、と叫んでいたがそんな素振りは一切見せない冷たい声。
「忘年会で飲んで夜遅く帰って来たのに、叱られて逆に怒ってしまって申し訳御座いません」
「そこじゃねえ」
だが、一刀両断。
「…………酒でつい、魔法を使って無理矢理して御免なさい」
「そこもかなり問題ある行動だが、それも違う」
条件付だが、これも跳ね返される。
あれ? とロジャーは平伏したまま首をかしげた。
今回の怒りのポイントはここだとばかり思っていたのだ。―――ここでないならばいい、とも思っていたのだが。無理矢理とはいえゾロリとて喜んだのだからイーブンだ、なんて冗談でも口に出したらとんでもないことになりそうなのでそれは胸の奥底にしまっておく。
酒で酔っていたとはいえ、流石に自分でも途中から酔いが醒めるくらいのことを仕出かした。しかも回復魔法はかけたというのに、今のゾロリの惨状はかなりなものだ。
―――ならば、どこだ?
人間コンピューターというか融通の利かなさはコンピューター以上だとゾロリに評されるロジャー脳は、必死で昨夜の記憶を手繰り寄せたのだった。
*****
昨夜、エージェント主催の忘年会があった。
その予定をゾロリにも告げたとき、彼はひどく腹を立てたがそれを無視して忘年会へ出席した。一次会で帰る予定だったのだが、ミリーに捕まり結局三次会まで引きずり回され、終電時間を二時間オーバーして家に着いた。
玄関が明るかった。
多少とも後ろめたい思いのある酔っ払いにとって、この瞬間ほど嫌な予感がするものはない。心臓が握りつぶされる思いで戸を開くと、予想通り、同居人が腕を組んで立って待っていたのである。
「……ただ今戻りました」
「随分遅いお帰りだな」
「連絡は入れておきましたよ?」
「俺様は早く帰って来いっていったはずだぞ」
それは……とロジャーは口篭る。
そんなことは確約できるわけではない。いったん始まってしまえば、酒の席ではそんな約束を盾に退席するなんて無理な話も良いところである。それは重々ゾロリに伝えたというのに、彼が納得しなかったのだ。だから電話を切った。
「無理だと言いましたよ」
「無理じゃねえだろっ!」
やけにつっかかるゾロリは、ロジャーの胸倉をつかむとそのまま扉に激しく打ち付けた。どしん、と家全体が揺らぐ。ロジャーはなんてことのないような素振りでちろりと視線を動かし、背の低い恋人を見つめた。
「……なんですか」
すっとその目が細められ、紫色の瞳が不穏に輝く。
周囲の空気が冷たく変わるのを、怒りに囚われて我を失っていたゾロリには感じ取ることが出来なかった。
「澄ましやがって! 帰って来いって、今日くらい、俺様の言うことがきけねえのかよっ」
何をそんなに怒っているのだろう。
そんなことを考えるロジャーの胸で、ゾロリは噛み付かんばかりの勢いで食って掛かる。曰く、嘘つき、悪人、最低、冷酷、鉄火面、ロボット、吝嗇、茄子、南瓜、ピーマン、竹輪。ロジャーはけたたましい怒声を一切無視して、静かに、だが素早く腕を回した。あっ、とキツネが声を上げたときには遅い。頭と腰をきつく捕まれて、強制的に唇が重なっていたのだ。
ゾロリの僅かに開いたそこを無理矢理こじ開けて自分の口を入れる。アルコールの強い香りが体になだれ込んできて、キツネは困惑して動けない。恋人の口を思いのまま貪って、満足してから、魔法使いは顔を離すとにやりと口の端を引き攣らせた。口と口の間に繋がる糸。
「……ああ、そうか。だから帰って欲しかったのですか。
一人で盛っていても面白くないですものね」
「おまっ! 何するんだよっ」
恋人の真っ当な反論など聞かず、ロジャーは囁くような声で呪文を詠唱する。
酒で熟れた頭に、恋人の怒声は鬱陶し過ぎた。疚しさは鬱憤に変わり、怒り身を任せて、脳内で画いていた残忍な計画を実行に移すことに決めた。明日のことなど、知ったことか。
ロジャーが呼び出したのは、魔法の国でしか成育しない不気味な植物。
緑色の蔦が、すぐにキツネを雁字搦めにしてしまう。
悲鳴を上げる恋人を見下ろしながら、魔法使いはせせら笑った。
「わかりました。
たっぷり付き合ってあげますよ」
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