[ [ [  Have a bad day,  8  ] ] ]


 塔のエレベータを降りたとき、まだ外界は、穏やかな昼下がりの午後だった。
「……間に合う、かなぁ」
補充できなかった薬の種類と量を正確に胸に刻み、ダポンは車に乗る。
 薬局に戻って、新しく作って、そして再びここに来る。
 材料は足りるはずだ。
 だが、かなり量が多い。
「間に合わないと……三割減だしな。よし、頑張るか」
薬局に戻り、自分の研究室で直ぐに調合を始めた。
 通常、薬の難易度が高いほど失敗することは多い。だから細心の注意を払って材料を選び、薬を練上げる。
 と、瓶を持つ左手が小刻みに震えていた。落としそうになっていたので、瓶を戻し、椅子に座って身体を丸めた。左手を身体で包んで、静かに語りかける。

「お前だけは我侭を言わないでくれ。大丈夫だから。頼むよ―――」

 そう言ってさえやれば、止まることを知っている。
 言葉は身体も感情も雁字搦めにして、思いのままに支配してくれる。本当に有難いものだ。
 その後はかなり集中して作りさしたる失敗もなく、十時頃には全ての薬が完成した。もう配達だけ。情報局ならばこの時間でも職員用の通路があいている。今から車を走らせば、ギリギリ間に合うだろう。
 研究室から出ると、店の者はもう皆帰っており、家は静まり返っていた。薬局と家は一体化している。
 急いで詰め込み、車のエンジンを入れた。

 ―――車は唸りをあげた、というのに。

 いつまで経っても、その車輪は回らない。
 運転席で、再び身体が思考と乖離した。
 足が固まって、全身が痙攣し、手が持ち上がらない。
 運転が出来ないのは勿論、そもそもアクセルだって踏めそうにない。

 喉が震えて声が出せない。
 一斉に反乱を起こした自分の身体。

 ―――それに、腹が立たない自分の感情。来たな、とダポンは思った。薄々その兆候は察していたから。
 行きたくないと悲鳴を上げる肉体に、納得してくれと必死に最後の精神が哀願する。その相克できりきりと身が痛む。過呼吸気味に息をつく。硬直した指はまるで彫刻の様に元から静止し続ける運命のようだ。

 今行こうとする場所は、つい半日前焼かれたり殴られたりした場所。魔法使いの巣窟。またあの痛みを味わうのならば、絶対に行くものか。動くものか。

 三割減ってしまっては、経営が危うくなる。何があっても今日中に届けなければならないのだ。納得してくれ。頼むから。大丈夫だから。大丈夫。落ち着いて。大丈夫。

 長い時間、そこで彼は苦しみを甘受した。
 欺瞞と嘘で誤魔化しつづけたツケ。端的に言えば肉体と精神の戦いは、予想していた通りのところに落ちる。―――そう、嘘が真実に勝てるはずがない。

「怖い。痛い。魔法使いの元へ、行きたくない。
 行きたくない」

漸く出た声は、他人のような声音だった。
 完全に支配された。
 それでも、大負けを喫した精神は―――何もかもわかっているはずなのに―――『大丈夫だから』と嘘を吐き続ける。だから、身体は意地でも動かない。
 ……いや、本当は。嘘を全て吐かせきるために動かないのかもしれない。ふとダポンは思う。言葉で上手く抑えているなんて甘い考えをしているそれを、無理だと分からせるために。もしくは、慰めるために。
 なんだ突拍子もない、話が飛んでわけが分からん。―――と冷たい言葉が後ろから聞こえる。その反論に必死に言葉を尽くして話始めた。
 反抗勢力のような精神の自分と、その戦いを冷静に傍観する自分と、さらにもう一人いるような気がした。そして傍観者は必死にその一人の聴衆に質問を投げかける。または、戦況を嘲笑いながら説明する。

 真っ暗だった視界に、陽が昇る瞬間が目に入った。

 その時、全ての思考が止まった。
 言葉を失うほどの光景だった。紅雲の中に浮かび上がる旭陽。何万色をも閉じ込めた雄大な空が、今初めて見えたのだ。
 と、同時に、硬直していた身体が脱力して、椅子に全身を投げ出している。寒さを覚えて毛が立った。
「……朝……か」
もうとっくに、時間は過ぎていた。だが、何かある種の自信を持って、爽やかな気持ちでアクセルを踏み込む。
 街が陽光に清められる時間帯、薬局の前の大通りを一台の車がゆったりとしたスピードで過ぎ去っていった。







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