[ [ [  あ、あのさ。今から謝ったら止めてくれる? 2  ] ] ]


 ガオンは、人を安心させる優雅な笑みで医師と看護婦を言いくるめて部屋から追い出した。あんな重態で動ける患者だから、まあ、それもよいだろうと、二人はなんとなく納得してしまって―――さっきの患者の動きに気圧されたという面も勿論ある―――ではと言い残し出て行く。
 そんなこんなで。
 病室に残されたのはガオンとゾロリの二人きりになった。
 いつの間にか体育すわりの姿勢で体を縮こまらせて、さめざめと泣いている。女性に裸姿を見られたのが恥ずかしいのか。それとも、注射がそれだけ怖かったのか。
 ガオンは溜息をつくと、注射器を横に置いて寝台にあった着せ替え用の服を取り上げた。
「……そんな可愛い格好を他人に見せるなといっているだろうが。
 とにかく服を着ろ」
ゾロリは片手で涙をぬぐいながら、手を伸ばす。
 ……が、受け取ろうとしたその手は不思議にも空を切った。ばさりと服が床に落ちる。ガオンの目の前でゆっくりとその体は崩れていく。
「ゾロリっ!?」
駆け寄るよりも早くゾロリの身は床に横たわっていた。
 やはり本調子ではないのだ。焦って動き回った分、疲れが一気に吹き出てきてもはや指一本も動かせそうにない。
 ゾロリが薄目を開けてぼんやりと眺めていると、焦った顔をする恋人が抱き上げて寝台に連れて行ってくれた。ガオンは丁寧に汗を拭くが、その間にも狐の体からは冷や汗が噴出し始める。舌をぐったりと垂らして、はぁはぁと荒い息遣い。
 視界がぐるぐるして、とにかく気持ちが悪い。お腹もまた凄く痛くなった気がする。
 だが、何より。
 ―――寒くて寒くてしょうがない。
「うぅぅ……」
低い呻き声を漏らす病人の体が小刻みに震える。
 がちがちと歯の根が合わない時の独特の音。
 顔を上げてみると、ゾロリの双眸からはぼろぼろと大粒の涙が零れていたのだ。
「やだあぁぁ……俺様、注射だけは嫌だぁ…………」
夢現になってまでも怖いらしい。
 ガオンは一瞬和んでしまいそうになったが、今はそんな場合ではないと自分を叱咤する。背を返して床に落ちた寝巻きを取って来る。寝台の上で丸くなるのを抑えながら、手早く寝巻きを着させた。
 ゾロリの汗は止まらない。このままで脱水症状も発生するだろう。
 後で医者に言っておこうと心にとどめながら、再び注射器を持ち上げる。未開封の薬瓶を取って、そこに針を刺しこみひっくり返した。横のカルテにある投薬量を横目で見ながら、手早く薬を注射器に移す。
 一人で旅をするということを決めたとき、最低限の医療知識等は真剣に勉強した。その時は自分が生きていくために必要だと思って学んでいたが、自分で使う前にまさか他人のために役立てる日が来ようとは。だが、生きていくというのはそういうことなのかもしれない。自分のためではなく、周囲を守るために、人は知識を得ようとするものかもしれない。
 前髪を撫でて、恋人の注意を向ける。助けてとばかりに潤んだ涙目を向けてきたと同時にガオンは口を開いた。

「ゾロリ、勝負をしないか?」

その低音で囁かれると、一瞬、意識が止まる。
 たとえそれが熱に魘されていようと、その声は、狐にとって重要な意味を持つ。
 ゾロリが大きな目を瞬かせて無防備な表情で見上げてきた。まだ、手の注射器には気づいた様子はない。視界からそれを隠すために、ガオンは覆いかぶさるようにして顔を近づけた。
「俺はこれから、痛い痛い痛い注射を刺してやる。
 だから、お前が、痛がらなかったら、勝ちだ」
「…………え、ちゅ、注射……」
普段の脳よりも十分の一も働かない脳にはその意味を理解するにはかなりの時間を要する。
「……お前が、するのか?」
「ああそうだ。
 私とお前の勝負だからな。
 すっごくすっごく痛いぞ。うわーんと大泣きするくらいだ。もう、遺体もいったーいって叫ぶくらいだ。
 ……だが、痛いと言ったらお前の負けだ。
 ま、どうせ耐えられんだろう。私の勝ちは決まったようなものだがな」
かっこつけて言ってやると、へへん、とゾロリは弱弱しく笑う。
「俺様が負けるはずがないだろ。
 どんな勝負だって絶対一番だ」
どうだかな、とガオンは意地悪く呟きながら顔を起こした。細くなってしまった腕を軽く持ち上げて、腕をまくる。
 注射器は少し太い。
 ゾロリの喉仏が、ごくりと一往復する。
 腕が震えて、彼の緊張がダイレクトにガオンに伝わってきた。
 注射器を下ろして、ガオンはにっと口を引き攣らせて揶揄う。
「痛いぞー。大声で泣くがいい。その瞬間私の勝ちだ。
 ま、どうせ無理だろうな。
 俺の刺す注射は痛くて痛くて痛くて痛くてたまらないんだ。イタズラの王者だろうが絶好調な校長先生だろうが、私の注射には敵うまい。
 残念だったな」
ふふんと鼻をならしながら嫌味たらしく自慢する。
 こんなにも挑発されては、言い返さなければイタズラの王者の名が泣く。
 ゾロリは涙で真っ赤になった目を半眼にして睨みつけると、いつもより五割減の元気の声で言い返した。
「へん。言ってろ。
 どーせ注射なんか、ちくっとだけだ。
 お前みたいな俺様の真似ばっかりしている親父ギャグの下手っぴなヤツが刺したって、全然痛くないんだ。
 絶好調の校長先生なんて、芸のない奴だなー。お前は。こういう時は、校長先生もこーちょくだーくらい言ってみやが…………れ?」
ゾロリの言葉が、ぷつりと切れた。
 大きな瞳が、すすすと動く。
 視点の先にあるのは、ガオンの手。
 その手は、いつの間にか空になった注射器を下ろすところだった。
 針が刺さった瞬間すら気がつかなかった。それはゾロリにとって人生観そのものを打ち砕く大事件だった。

 俺様、注射なんか、全然平気じゃん。
 あの凄く凄くものすごーく痛いガオンの注射が痛くないどころか―――痛くないどころか、わかりもしなかった!

 くいっと肩をすくめて、残念そうにガオンは呟く。
「終わりだ。
 やれやれ、やはり今回も負けてしまったようだな。
 ……後でイノシシたちに伝えてやるから、今は寝ていろ。今晩にはもう良くなっているだろう」
「へへへっ!
 見ろ、俺様、凄いだろうっ」
「ああ。……そうだな、凄いな」
「ちっとも痛くなかったぞ。お前の注射なんて。うっしっしっし」
掛け布団を首まで掛けてやっても、まだ嬉しいのか無邪気な笑顔で自慢している。ガオンはその言葉に耳を傾けつつ、ゆっくりとその胸を叩いた。
 ゾロリの明るい声の間隔がだんだん長くなり、そして、ある瞬間途絶える。完全に眠ってしまったのを確認してから、ガオンは部屋を後にした。


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