[ [ [  愛に言葉は要らない……で済むわけが無い。 5  ] ] ]


 長い道のりだった。
 廊下を連れ立って歩くガオンは、いつもより少し足早で、そして始終笑みを絶やすことがなかった。
 彼の城はとにかく広い。
 客間からガオンの部屋に行くのにも、最短ルートですら階段を三つ上って六つ下らなければならない。王子が逃出しても気がつかないほどだ。ましてや、ウナギがいるだろう調理場に行くのにはどれだけ遠いのかゾロリには見当もつかなかった。もしこの場で置き去りにされては、もう永遠に弟子たちに会えないような気がする。
 無駄に広い空間は、硝子の壁で外と区切られ、昼の暖かな日差しをふんだんに取り入れて隅々まで明るい。赤い絨毯と白い壁、金色の柱。高い天井に至るまで神経質な細工が施されており、のびのびとした穏やかな雰囲気にもかかわらず格調の高さが失われない。きょろきょろと落ち着きの無いゾロリとは対照的に、城の主は真っ直ぐに先だけを見据えて闊歩していた。
「ここら辺、来たことねえな」
「そうだな、こっちは滅多に使われない地域だ。
 ―――すぐ着くさ。
 ……ああ、そこを左に曲がったところに扉がある。用意するのは大変だったんだぞ」
「用意?」
二人は扉の前で足を止めた。

 プール入り口

 ―――と、横に達筆で書かれていた樫の木の札がぶら下がっている。札といっても幅が二メートル、高さは五メートル強。書かれている言葉はありきたりなのに、綺麗な飴色の一枚の板で、その大きさから値段を想像するのが恐ろしい看板だ。
 その看板を見上げながら疑問符をいくつも浮べる恋人をきれいに無視して、ガオンは取っ手に手をかけて引く。廊下の雰囲気とは全く異なる、ジャパネスク風の、白木のデザインが目を引く格子扉。音も無く開かれた先には、脱衣場のような場所が広がっていた。
 ような、とあるのは、脱衣場にも関わらずテーブルや飲食を用意するカウンターがあるからだ。ついでにソファとテレビとオーディオキット、百科事典も揃っている。
「他の王族を呼ぶときに使う、まあ、娯楽施設の一つだ」
「……家にプールがあるのはわかるが、家の中にプールがあるってお前……」
ゾロリがげんなりとした表情で呻くと、ガオンは分からないといった風に首をかしげる。
 が、彼は靴を脱がずそのまま一段高くなった三和土を上がって堂々とすのこの上を進んでいく。
 出遅れたゾロリは慌てて後を追った。

 と。

 突如として。
 王子はくるりと身を返した。
 男は満面の笑みを湛えていた。さっきまでと同じように。
「最後の用意を忘れていた」
 明るい、底抜けたような、朗らかな―――
 いつもの通りの耳に心地よい低音だが、どこか、人に恐怖を与える響きがある。ぞくりとキツネは全身が粟立つ。
 その時、彼は、気がついたのだ。
 何故か恋人は、いつもの帽子を被っていることに。
 ―――ここが城で、今は王子であるにもかかわらず、だ。
「……大人しくしていろ。動くと、痛いぞ?」
と。
 意味深長な呟きが洩れる。
 同時に、帽子の先端が開いていつものマジックハンドが現れる。ゾロリは弾かれたように首を上げた。薔薇か、おでんか、それとも―――。
 予想は見事に全て外れ、ゾロリは思い切り顔を強張らせて硬直した。
 白い手が持つのは、きらりと照明に針の先端が輝く一本の太い注射器。
「……ひぃぃっ」
恐怖で引き攣る愛らしい男の顔にくすくすとガオンは笑う。とても楽しそうに。コメディ映画を見ているときのような表裏のない笑み。
 その間にも、機械の手は凄い速さで伸びる。
 悲鳴をあげる間もなく―――逃げるなんてもっての外で―――その針はゾロリの右の首筋に噛み付いた。
 一瞬キツネの尻尾がぴんと立つ。
 マジックハンドは注射器の後ろをゆっくりと押し、体内へ注入されていく薬。
 傍から見れば、彼は、ガオンの言葉どおり大人しくその苦行を受けたようにすら見える。実際は、恐怖と混乱に飲まれて動けなかっただけであるが。
 薬の効果は覿面だった。
 キツネは数秒と立たず視界がぐらつき、足元がふらついて真っ直ぐに立てなくなった。刻一刻と遠のく意識を留めるために、ゾロリは身体を強く抱きしめる。爪が柔らかな皮膚を食いちぎる。
 だが、そんな抵抗も空しく、全身の力が抜け、三和土から転げ落ちて格子板に勢いよく打つかった。大きな音。しかし、その痛みすら感じない。何もかもが遠く、非現実のように思える。
 ガオンは一歩進んで、上からその様子を見下ろしていた。笑顔のままで。
 ゾロリはしばらく戸に凭れかかって最後の呻き声を上げていたが、声は弱まり、最後には、ずるずると床に崩れ落ちた。




MAIN  ・ BACK  ・ NEXT