[ [ [ Run! ] ] ]
それはもはや、慣れた日常で日々の儀式。
「うわぁぁぁぁぁぁ―――っ!」
ダポンは全速力で疾駆していた。追いつかれるのが時間の問題だということは毎日の経験から痛いほど理解している。頭から異臭を放つ魔法の薬をかけたり数日前に魔法の箒の毛を毟ったりと申し訳程度の小細工はいくつもしたが、やはり向こうは魔法の国の屈指の魔法使いで、しかも彼はその才能を惜しげなくこの下らない儀式に注ぐのだ。
心臓は早鐘のように打ちつけ、息が苦しくなり、ぎりぎりと脇腹が悲鳴を上げている。ならば諦めて足を止めて大人しくつかまればよいのだが、肉体の声を無視して足は前へ前へと勝手に進んでしまう。もはや無意識で走っていた。意識はあるのに無意識で行動する。そんな不思議な状態を分析できる余裕はダポンにはなかった。
この時、いつも思うのだ。
あの魔法使いは、大人気ないにも程がある。
―――と。
10分前、ちょっとからかっただけなのに。
*****
「凄い量のチョコですねー」
先に家に帰っていたダポンがロジャーを出迎えたとき、男は、非常に不機嫌そうな顔をして四つの紙袋を提げていた。袋にはぎっしり可愛い小箱が入っており、いくつかは袋から飛び出している。重さもかなりのものだろう。
ロジャーは、とにかく、やたらと、バレンタインにチョコを貰う。
本命も勿論あるだろうが、れ以上に義理や記念が多い。魔法の国情報局の女子職員だけではなく、見たことも話したこともない相手からわんさか渡される。魔法の国屈指の若きエリート魔法使いに対してチョコを渡したい。それは、アイドルにあげるのと同様の心理なのだろう。
しかも彼は几帳面な性格ゆえに、必ずホワイトデーにお返しを手渡しに来る。たとえ国の端に住んでいようが、空の上で箒で飛んでいようが、絶対に必ず。それが余計に事態に拍車をかけるのだ。
四つの紙袋を受け取りながら、ダポンは不思議に思った。何故こんなにも不機嫌なのだろうか。もてるということはそんな悪いことでもないだろうに。だがまあ、どうせ面倒なことを考えているのだろうと片付けて背を返した。
「おい」
と。一歩目を踏み出した狸は、低い声で呼び止められる。
「はい?」
首を返すと、手を伸ばしているロジャーがそこにいた。
ダポンはどうすればよいのかわからず、まずそのすらりと伸びた指を持つ手を見て、次に整った顔を見て、そしてまた手に視線を戻す。
いつもどおり意味がわからないなぁとかなんとか考えていると、魔法使いはその気持ちを察してかコホンと咳払いをしてから口を開いた。
「―――貰ってやるぞ」
よくよく見れば、国で評判の美貌の頬が軽く赤く染まっているではないか。
ダポンは丸い目を二三度ぱちくりと瞬かせ。
そして、その行動の意味を理解したのだろう、ああと声を上げると狸は軽蔑の目をしながら鼻で笑った。
―――予想通りの対応とはいえ、ちょっと凹みそうになる。
恋人だ、なあ、恋人なんだ。そうだろう、だから一緒に暮らしているんだろう? ……なあ。それは違うのか? いや、たぶん、違うはずはない。……と思う。うむ、おそらく。頼むからそうであって欲しいが。…………待てよ、あって欲しいってことは、やっぱりそうじゃないのか?
転がる石のような速度で思考が暗いほうへ進むのを、ロジャーはぎりぎりのところで、なんとか堪えた。思ったら負けだとか、信じていれば明日が来るとか、最後の方はもはや説得に近かったが、なんとか堪えたのだ。流石無駄にエリートなだけはある。
この辺の森一帯を焼け野原に変えるくらいの魔法のオーラが皮膚の下で暴走を起こす。ダポンでなければその時点で命の危機を悟って逃出していただろう。
狸が口を開く前に、ロジャーは大きく息を吐いて手を戻した。
「……やはりな。
まあ、バレンタインデーなんて、お前が知っているわけもないか。来年は用意しておくんだぞ。今日は最も愛する相手にチョコレートを渡して親愛の情を示す日だ」
そんな日だったら絶対に渡すものか、とダポンは心で呟いたが、今はこの後の計画のために聞こえなかったことにした。そう決めた。
「知ってますよそのくらいは。余分のチョコレートならありますけど」
「ふん。他人から貰った分を渡すのだろう?」
「そうですよ」
「いらんわっっ!」
嗚呼、どうして、どうしてなのだ? 私が一体何をした?
嫌になるくらいチョコは貰うのに、どうでもいい相手からは貰えるというのに、―――どうして一番本当に欲しい相手からは手に入れることが出来ないのだ。
ロジャーとて貰えるなんて思っていなかったが、現実に、欠片も気にしていないと思い知らされるとなんだか悔しい。しかも今の言葉からすると、ダポンはいくつか貰っているようだし、バレンタインデーそのものも知っているようだ。それでも自分へ渡すという思考が起こらない。……悲しさよりも悔しさが、失意よりも憤懣が精神を支配した。
この思考の方向性が厭われる原因だと気づいたらおそらく二人の関係はもう少しましなものになるだろうが。歴史にもしもがないように、過去にもやはりもしもはない。
わなわなと震える唇が自然に動き始める。
ロジャーはダポンを完全にロックオンした目で睨みつける。怪我はさせんが地獄の苦しみを味あわせてやる、覚えてろ―――と、自分がまず本気で相手を本当に恋人と思っているのか問い質したくなるようなことを考えながら。
狸はライオンの気持ちを大まかに読んで、見えない角度でにやりと微笑んだ。真性の腹黒しか出来ない真っ黒な笑み。
時は、来た。
魔法使いが魔法の呪文詠唱を始めるよりも前に―――
「なんてね」
にこり、と不意打ちのようにダポンが微笑みかける。
その愛くるしい顔に一瞬心臓が止まる。
「ロジャーさんの分。ありますよ。
実はバレンタインデーの話、ネリーちゃんに聞いていて、その時から是非と思って用意いたんです」
ロジャーは半開きのままで固まっていたが、慌てて姿勢を正した。
聞き間違いではないか必死に検討したが、この静かな玄関で聴き間違いなんて起こり得るだろうか。否。今まで同居しても甘い恋人の雰囲気は一切漂わせない彼が、まさか、まさか、そんなことを言うなんてっ! 脳内の教会の鐘が一斉に鳴り響く。
喜んで首を縦に振りたい気持ちをぐっと堪えて、いつもの自信に溢れた笑みを浮かべてわき腹に手を置いた。
「ほう? それならば、それなりの言葉があるのだろうな」
口調こそいつもの通り高慢なのだが、表情から堪えきれない嬉しさが零れ落ちている。彼の全身から溢れるオーラで、玄関の温度が僅かに上がる。ダポンは前掛けの下のつなぎのポケットに手を突っ込んだ。それは魔法薬を探すときに着る服なので、信じられないほど隠しポケットがついている。
「はいはい。お荷物になりますが、どうか受け取ってくださいますか?」
丸い四本指が取り出したのは、赤いリボンで包まれた小さな小箱。
「しょうがないな」
全然しょうがないなんて思っていない顔して、ロジャーはダポンが隠し持っていた生まれて始めてのプレゼントを取り上げた。狸は手渡すとすぐに背を返して、チョコの袋を持ってダイニングへ向かう。
「夕飯楽しみにしていますね」
廊下と部屋とを区切る扉が閉まり、その後ろ姿が見えなくなった。
と、同時に。
エリート魔法使いは手の紙袋を放りだしてリボンの箱を抱きしめた。
本物だ。本物のチョコだ。
力を入れると壊れてしまいそうなそれを抱いていると、胸がほかほかと温かくなって涙が出そうになる。その感触。この世界にコレが存在するという確かな感触。嗚呼、夢じゃない。妄想でも幻想でも空想でもない。
ロジャーさーんと呼ぶ声に、浸っていたエリートは現実に引き戻された。
わたわたとそのリボンを引いて、包装紙の止め口を探した。どうしても、夕食の前に一つくらい味わってみたい。玄関で食べるなんて行儀が悪いが今は自分を抑えられそうにない。するりと床に落ちる赤いリボン。包み紙を綺麗に取っておきたいので、逸る心を抑えて震える指でシールを丁寧に外して開いていく。金色の小箱が現れたら、いそいそと蓋を取った。
そして、彼の目の前に現れたのは。
嫌がらせのように大きい板チョコ(横5センチ×長さ10センチ×厚さ3センチ〕の上に、ホワイトチョコでデコーレトされてる白い二文字。
「……………………義理?」
義理。義理……って、義理?
「だぽぉぉぉぉぉんっ!」
気づけは本能の域で箒に飛び乗っている。がしゃんと窓が開く音が家の奥で聞こえた。
こうして10分間、死ぬ気の追いかけっこをしているのである。
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